泉涌寺地区は、もともと『京都府愛宕郡今熊野村字東林寺』と呼ばれ、戒光寺の末寺の東林寺のあったところであった。
この地は「やきもの」とは古くから縁があり、太閤秀吉が大仏殿造営にあたり、この地に瓦窯を築かせ、「大仏瓦」の名で、東林町にも十数軒の瓦窯が大正初年まであったそうである。

明治38年、泉山了谷がこの地に「やきものの窯」を築き、明治41年、宇野仁松が「登り窯」に改良して焼造した時から起算して、開窯100有余年になる。
そして五条坂から先人達が登り窯を築いて、京焼・清水焼を開窯したのが大正3年。1番多い時で14本もの登り窯が煙を上げていた。
しかしその間、順風満帆での歴史ではなく、大正12年の世界的な不況、太平洋戦争、企業整備、若者は戦場にかり出され、帰らぬ人になった人々も計り知れない。こうして幾つかの大きな試練を経て、戦後につながるのである。